目標

目標って大事?
目標がないとぐるぐる回って、先に進まないらしい。と、ずっと思ったが実は自分の目標は何、考えると目標がないし、小さいからなかった。
細かいことならもちろん目標がある。来年の夏に北海道に行きたいとか、オートバイを買いたいとか。だが生涯の目標がない。夢がないと言っても良いぐらい。
だから今までずっとぐるぐる回って、前に進まなかったと思ったら、そうでもない。どちらかと目標なし前に進んだ。イメージを作ると部屋に入って次のあけたドアを探す。ドア見つけたら、入って、また次のドアが探す。最後にどこまでつくと分からないが取り合えず進む。
考えてみると今まで進んだ道はほとんど偶然でした。高校まで科学を好きで、化学者になりたかった。だが入学前に共産党の秘密警察とトラブルになって、国立大学に入れなくなってしまった。共産党と独立していた大学はひとつしかなくて、科学部はあまりよくなかったので残念と思いながら、文学に入ってしまった。今から見ると“運がよかった”とか思わない。哲学、人類学、語学、広い世界を見せてもらって幸せだ。そのまま化学者になったら、たぶんキャリアに成功したが、世界はこんな広いところだと今まで分からなかったかもしれない。
日本にきたのも偶然だった。ザンビアに行って研究したかった。アフリカは不可能だったが日本にくる可能になった。あけたドアを見ると必ず入る人だから申し込んで、来てしまった。最初にちょっとだけ見てみようと思ったが、そのまま残った。今から見ると“よかったな”と本当に思う。
目標なしでも、そのまま生きることができると最近思うようになった。目標があって成功すると確かに嬉しい。だが目標がなくてもいい道に入って、いい経験したら、これでも結構嬉しい。
夢がなくても、絶望に落ちるわけでもない。宝捜しみたいな生活も面白いし、価値があります。

自己愛

国家の品格’をまだ読んでいます。ずっと前に始まって、なかなか終われない。だが、頑張って読んでいますよ。一頁を読むと一時間ぐらい腹が立つにもかかわらず。藤原さんって自分で間違ったことを全部欧米人の考え方だと言ってるから。それにもかかわらず同じような考え方も多いから最後まで読みたい。
今日は四つの愛について呼んだ。‘家族の愛’の延長は‘郷土の愛’。その延長は‘祖国の愛’。最後は‘人類の愛’。基本的にそうだと思う。しかも子供ころある漫画にこんなことを読んだ:‘俺は人類が大好き。近所のお婆さんだけ煩くて、なかなか我慢できない’。
同じ教えのではないか。形式だけ違う。欧米人は‘「地球市民」は世界中に誰一人もいない’ということをよく分かるし、幼稚園ころこのことを習う。
又、‘家族の愛’の前に‘自分の愛’をつけないと拠点がない。自分のことを認めて、自分の価値がわかって、自分の命を愛して、両親に対して愛が生まれます。ここから家族、隣人、民族、人類に対して愛が広がる。自分が嫌いな人は、他人を愛するわけではない。
もしかしたら、子供たちに‘祖国の愛’を教えるより、まず一人一人に自分の素晴らしさを見せたほうが良いのではないか?

偽物のクリスマス飾り

今読んでいる本の中で面白いところが見つかった:
“最近偽物のクリスマス飾りが売り出したらしい。見た目は本物と変わらないが、買った人は喜ばない。”

実は、クリスマス飾りだけではなくて、このような偽物が多いという感じがする。買ったら喜ぶはずなのに喜ばない、食べたら幸せになるはずなのに幸せにならない、行って見たら楽しいはずなのに楽しくない。

なぜだろう?
問題は、安くて、簡単に手に入れるものが多い。安くて、間単に手に入れるものは、綺麗に見えるが実際に価値がない。だから見ても、買っても、食べてもたいした楽しくもない。

おばけ屋敷

毎年のように会社はおばけ屋敷に変わった。ハロウィンだ。
実はハロウィンを初めて見たのは日本だった。イギリスで住んでたときに、この日、子供たちが何かで遊んでると聞いたことあるが、自分ですでに大人だったし、子供がまだいなかったし、あまり興味がなかった。
今でも、ハロウィンにとくに興味がないけど、人類学的にちょっと面白い祭りだと思います。
簡単に言うとハロウィンは、かぼちゃ祭りに変換したお盆です。しかも、もともとこの時期にお盆お祝いしなかった国で一番広がった。完全に商業の理由、日本に輸入して、成長させた祭りです。ちょうどこの時期に他のイベントがなかったからじゃないか。

国では、11月1日に“諸聖人の日”をお祝いします。まあ、深く考えると根源は同じです。ハロウィンは“All hallow even”(諸聖人の日)の短縮形だそうです。

諸聖人の日と言っても、お墓参りの日です。しかも、国民の祝日
かぼちゃと関係ないし、商業ともあまり関係ない。とてもまじめなお祝いです。売れるのは菊とろうぞくぐらい。伝統的にお墓にろうぞくをつけて、菊の花をささげます。

No news, good news

また最近日記を書けなくなった。考えることがないわけじゃないけどなかなか書けない。毎日つらかったときにほとんど毎日書いてたのに。いま結構元気でやってるからはてなも開けなくなった。うれしいこと誰にと分けたない?辛いことだけ。いえ、そうでもない。うれしいことを生きている人と分けたい、つらいことを匿名の日記に。。。という感じかな。

だが、これもよくない。やっぱりうれしいことも時々書こう!

大人と話したい

愛する人と一緒にいたほうが良い、それとも愛されてる人と?他の状態は不可能だったら。
数年前にこの質問を聞かれたとき、迷わず愛されてる人と、と答えた。自分の気持ちがコントロルが出来るから。少なくともある程度。相手の気持ちがどうしょうもならない。
今まったく反対状態になってしまった。愛して、嫌われている人と暮らす。やめるべきかな?こんな関係?簡単にやめられるなら、もちろんやめたほうが良いんだが、そんな簡単なことじゃない。子供もいるし、ある程度生活が落ち着いてるし、分かれたら二人とも生活が難しくなるし、子供も親が二人が必要だと思う。続くしかないだろうね。。。

だが大人と普通の会話が出来ない状態だとやっぱり疲れる。自分の問題もあるが国に帰ったときに簡単に話せた。なぜ日本でこんな問題なのかな?言葉?文化?教育?

リレーションシップ

天国は人と人の完全関係の状態、地獄は永遠の孤独の状態だそうです。
混んでいるところにいるとか、一人になりたいとか、それはまだ別のことだ。一人になっても、愛する、愛してくれる人がいると、孤独といえない。賑やかなところにいても、寂しい人もいっぱいいる。
要点は人と人との関係。完璧な関係はどんなことというと、相手のことを理解して、認めることじゃないか。生きている聖人がいない。誰でも欠点があるので、ずっと一緒にいると疲れるときも来る。だが、これを超えないといつまでも相手のことをわからなくて、深い関係にならない。
最近、浅い関係が流行っているという感じがする。例えばブログの関係。オンラインの友達だと、好きなときしか会わないし、自分のことを、見せたいことだけ見せるし、疲れたときにラインオフするだけ。しかも時間がもそんなにかからないのでいろいろな友達がいっぱい出来て、楽しい。リレーションシップの良質は数量に変わる。

天国に行ったら今の浅い関係は深くなるか、それとも消えてしまうか?浅くても、友情ならば、悪いことじゃないし、神様に反することもない。だが、簡単に手に入れたものが大抵価値がないので、ちっとも痛くないリレーションシップが本当の人間の関係かなと、ちょっと不安。関係はあんまり浅いと、心の中で少しだけ深いところに入るとやっぱり孤独じゃないか?